吾輩は理学療法士である。

理学療法士が綴る、論文や本、日々の出来事のお話

カエルと空の深さのお話

先日、大学生の時以来の臨床実習に行ってきた。

 

大学生時代は、2・3・4年生で1回ずつ、病院で指導者の下で数週間実習をするという臨床実習がある。

 

その頃の僕は”超”がつくほどの生意気ボーイ。
とりわけ2年生の実習は酷かった。いや、もう酷すぎた。
今考えただけでも、失禁しそうになる。
詳しくは書かないが、途中で実習中止になりかけるほど。
その後、国家試験も合格し、就職も決まったことを実習指導者の先生方に手紙を出したら、2年生の時の指導者の先生からだけ返信がきた。

 

 

”3週間という短期間だったにも関わらず、須永君の素直な反応が印象的で、とてもよく覚えています。負けず嫌いな性格の須永君なので、その後の実習、今後の仕事で技術を研鑽して、頼れる理学療法士になってくれていると思ってます。ご報告ありがとう。”

 

 

もちろん、この手紙は大切に保管している。


そして、先日とある会で、8年ぶりにその指導者の先生にお会いした。
その人を見た瞬間に当時がフラッシュバック。心臓の鼓動が跳ね上がる。
でも、ここでいかないと絶対後悔すると思い、声をかけた。
頼れる理学療法士になりました、とはまだまだ言えなかったけど、
少しずつ頑張ってますと伝えると、

 

 

”時間が経つと、落ち着くんだね”

 

 

言葉で説明できないけど、なんとなくその先生に近づくことができた気がした。


学生時代の臨床実習って、正直技術うんぬんのコトより、理学療法を通した人と人とのつながりみたいな方がずっと心に残ってる。
最後の実習で認知症の患者さんがいて、その人は暴れてチューブとか抜いちゃうから、手にミトンつけられてベッドに腕を縛られてる状態だった。
叫んだりもするし、リハビリもなかなか苦労した記憶がある。
でも、たまにすごく大人しくなって少しだけ会話もできるくらいになるときがあった。
実習も終盤だったころ、その人が小声で、でもはっきりと何かを言っていたので、耳を近づけて聞き返すと、

 

 

”何も言わなくても相手のことがわかるように”

 

 

 自分のものさしの目盛りが大きいと、自分の目盛り間隔に相手を当てはめてしまう
人生経験を積んで、いろんな考えの人と触れ合って、自分の目盛りを細かくしていくんだよっていうメッセージだったのかなって解釈してる。

 

 

学生の実習は、臨床とは何かとか、理学療法士としての心構えを学ぶという要素が大きいけど(勝手に思ってる)、冒頭で言った臨床実習はまさに技術習得のための実習だ。
現在僕は、整形徒手理学療法の国際コースに通っているが、最終試験前の臨床実習(Supervision:SV)の段階。
SVのためにこのコースがあると言っても過言ではないと思う。


コースで習うことは、1発で治せるとか、ここを押せば変わるとか、そんな類のものではなく、筋肉や関節の構造、生理学、運動学、そして、エビデンスベースなものを理解して、それを現時点での理論のもと手技として習得していく。


しかし、ある意味、一つ一つがバラバラな”点”だ。


臨床とは、点と点を結んで”線”にする、線と線の交点を探して”面”とする、面と面を重ね合わせて”立体”としていくことであるが、それが他でもないSVなのだ。
いわゆる、コースの集大成である。

 

もちろん実習なので、指導者(有資格者)がいる。
この人達がとにかくすごい。
指導者、半端ないって、もぉー(遅ればせながら、今初めて見た)。


一番すごいと思ったのが、問診
クローズな質問でバンバン症状を当てていく。
患者さんも、”それあります!”とか”自覚してなかったけどホントだ・・・”みたいな。
クイズじゃないから当てることを目的としてるわけじゃないけど、
質問で徐々に的を絞っていくから必然的に当たっていく。

 

常に2~3手先を見ながら評価する。
この評価が出来なかったらコレという、選択肢をいくつか持っておく。
どの部分を厚くして、どの部分を薄く、もしくは省略できるか考える。

 

これがプロフェッショナル、まさに臨床家だと思った。
患者さんには実習に参加してくれと頼んでいる側なのに、
最後には”ありがとうございました。来て良かったです。”と言わせる。
比喩表現でもなんでもなく、
僕に対してと指導者に対しての患者さんの目の輝きが全く違った。

 

 

実習終了後の感想は、

 

 

”悔しい”
”自分がふがいない”

 

 

ではなく

 

 

こんな人がいるなら僕もこうなれるんだっていう


”高揚感”


の方が圧倒的に強かったことに驚いた。


井の中の蛙大海を知らず、そして空の深さも知らなかった僕が、
悠々とその井戸を飛び越えて行く蛙を目の当たりにして、こう思った。

 
 
それだったら、
同じ蛙の僕も脚力次第で行けるに決まってるだろ
 
 
 
そんな高揚感の中、実習とは別に勉強会の場で、ある理学療法士の方を問診・評価・治療する機会があった。
結果としては、問診でつまづいて、惨敗。
その時も、有資格者の人達がいて、実習同様にアドバイスをくれていた。
でも、なぜか僕の中に沸いた感情は、
 
 
”泣きたくなるぐらい悔しい”
 
 
前回とは真逆の感情。
状況はほぼ一緒。
なぜだ。
ギャラリーがいたから?
職場の後輩に良いところが見せられなかったから?
いや、違う。
 
 
自分の能力の範囲内で辿り着けるゴールだったから
 
 
正直前回は、背中は見えてるけど、今の自分では手が届かない感覚だった。
でも今回は、その人が発している悲鳴(主訴や症状)を、こっちの先入観で押さえつけてしまった感じ。
手が届く範囲にあるのに、みすみす見逃す。
額にメガネをかけて、”メガネメガネ・・・”みたいな。
友達に電話かけて、”そこに俺の携帯ある?”みたいな。
 

なんでかわかんないけど悔しかったんだよね、で終わらせない。
今後、自分の感情に惑わされないために
自分で納得できる感情なのか、理不尽な感情なのかを区別できるように
 
 
 
 
 
自分のものさしの目盛り間隔で相手を当てはめてしまっていた。
あの時のおじいちゃんに怒られちゃうな。
 
 
 
 
 
追伸
先生、やっぱり僕は2年生の頃と変わらず、今も負けず嫌いの生意気ボーイでした。
伸び代だらけです。